森田智子 「自伝」




1976年5月18日  生誕
ぽっかぽかの五月晴れ。空は青く、風は緑の昼下がり。
オペラ歌手になりたかった、唄大好きな母と、
酒と暴力とギャンブルが大好きな父の間の三人姉妹の末っ子として生まれる。

生まれてすぐに、二番目の姉に右のほっぺを指でぐりぐりやられ、片えくぼを作成される。


1976年8月  (三ヶ月)
母の歌う”短調”の歌に過剰に反応。
いまでは大好きな「五木の子守唄」や「竹田の子守唄」を聴こうものなら、
泣き叫んで寝るどころではなかったらしい。
母は「暗く悲しい歌はやめよう・・・。」と反省。
「ゆりかごの歌」が大のお気に入り。この頃から歌もよく歌っていた


1977年 (一歳)
絵本「カロリーヌ」シリーズが大好きになり、毎晩母に
読んでもらうようになる。中でも「カロリーヌの大冒険」は母が三年間、毎晩
読み続けたほど。母が間違えるとツッコミを入れるぐらい、全部覚えていたらしい。


1978年  (二歳)
くる日もくる日も口笛を必死で練習。
”ホーホケキョ”の達人になる。


1979年  (三歳)
家の裏の野山を一緒に駆けずり回って遊んだ愛犬「マコ」が死ぬ。
悲しむ私に母が「マコは星になってともちゃんを見守ってるよ。」
と言われ立ち直る。今でもそう思っている。


1980年  (四歳)
UFOを目撃する。母と私と近所の人(?)と四人で。
同じ時間にTVやラジオでニュースになっていた。
ずぅぇーったい本物だってば!!

・・・この頃、母の頭をゲンコツでなぐった父の小指の骨が折れるという
事件が起こる。(今考えるとちょっと笑う・・・)

父の家庭内暴力、酒乱を目の当たりにし、早くも軽い人間不信に陥る。


1981年  (五歳)
ついに父と母が離婚。父から逃れ、母の実家のある
佐賀県に引っ越す。
母の弟夫婦とその子供三人姉妹弟と祖父母の同居する家に
一時身を寄せるも、すぐに海の近くのボロアパートで四人暮らしを始める。

私だけがかなり幼かった為、一人幼稚園から帰ったあと
祖母の家で面倒をみてもらうことになる。
ここから第一のぢごくの日々・・・。

祖父が亡くなったあと、祖母からひどいいじめを受ける。
この世に差別ってもんがあることを悟る。
後にブルース(黒人音楽)に強く惹かれるようになったのも
この頃の体験があるからだろう。


1982年  (六歳)
小学校入学。なんか知らんが最初っから副学級委員長
だった。 いつの間にやら優等生 (?)♪


1983年  (七歳) ばぁちゃんからのいじめに耐え切れず、学校が終わったら
ばぁちゃんの家ではなく、海のアパートで留守番するようになる。
こうしてカギっこ生活は始まった。

・・・田舎だったしなぁ。当時は離婚もめずらしかった。
ばぁちゃんにいじめられることは無くなったけど、
近所の子供達とはあんまりうまくいかなかった。
遊んではいたけど、結構辛いこと多かったよぉー・・・


1985年  (九歳)
かなりの凧揚げ名人になる。
今思えば、小学校時代は楽しかった。
色々あるにはあったけど、楽しかった。
問題はやはり中学校で起こるのよねぇ・・・。


1989年  (十三歳)
中学校入学
一学期まで大の仲良しだった二人の友達が私をいじめ始める。
理由は・・・彼女達より私の成績の方が良かったこと・・・。
あと、当時の私の性格が結構ひねくれてたから・・・かなぁ?
多分ね。


1990年  (十四歳)
いじめの規模が確実に大きくなり、二人→少人数→
クラスの女子→クラス全員→学年中と分かりやすくエスカレートしていった。
もはや中学校のどこにも私の居場所がなく、
ベランダ、図書館、保健室、中庭の隅などなど、居心地の良い場所を
探しては放浪していた。さっさと家に帰って、独り色んな歌を唄ってたなぁ。

この頃、毎晩、朝まで母と闘っていた。
”死にたい”という私と、”死なせるもんか!”という母。
遠く離れても、毎朝モーニングコールをくれる姉。
今では心から感謝している。
「智子に謝っといて欲しい」と言い残して祖母が他界する。


1991年  (十五歳)
皆が勉強で忙しくなり、次第にいじめは止んだ。
それなりに平和に中学を卒業する。


1992年  (十六歳)
高校入学。ラクに入れるしと思い、選んだ高校が
えらい進学コースだった。一学期は人間関係も勉強も頑張ったが、
私がいじめられっこだったことがウワサに。
明るく頑張っていた私に対し、「高校デビュー」との声が上がる。

再び居場所を無くし、勉強にもついていけない日々。
胃と食道をやられ、入院する。


1993年  (十七歳)
姉の勧めで、とある演劇研究所に入る。
母との二人暮らしが辛くなり、家出。再び生まれ故郷に戻り、
生まれて初めての一人暮らしをはじめる。

とにかくひどかった。まだまだきちんとした人格もできていないままなので、
バイトも続かず、だらしない生活をしてた。
芝居で出逢った友達といろんなことをやらかしてました。


1996年  (二十歳)
バイトで素晴らしい人生の先輩に恵まれ、根性を叩き直された
私は、再び歌に興味を向け始める。
主に「エスカレーターズ」という、ファンクバンドをコピーしたバンドの
ボーカルを担当していた


1998年  (二十二歳)
作曲をしてみたくて、ギターを買ってくる。


2000年  (二十四歳)
一念発起。歌手になろうと決意し上京。
しかし何をどうしていいやらさっぱりわからず自暴自棄。
今でも私を支え続けてくれている師匠と出会うも困らせてばかりだった。
今考えたら”動き出せずにいた自分”ってすごく情けないと思う。
この頃って本当に色んな言い訳をして何もしてなかった気がする。
ぐるぐるぐるぐる、同じ場所で迷って踏み出せない。
とにかく人に迷惑ばっかりかけてた。
東京に来た意味ないじゃんって周りに言われ続け丸四年が過ぎた。


2004年  (二十八歳)
ある人との出会いがあり、私はやっと一歩踏み出すことになる。
その人に触発され、週に一度のア・カペラ ストリートライブを始める。

この頃から”やっと唄いだした”って感じかなぁ・・・。
いままで結構つらい事あったのも、この為だって思えたり。
夜中に声張り上げて唄ってるとさ、色んな人に出逢えるんだよ。
それこそ私なんかより色んな人生歩んでる人とか。
こっちが教えられるばかりだよ。

五月・秋葉原ライブガレージ「秋田犬」にて、ア・カペラのみのライブを
月一回ペースではじめ、アカペラライブを始める。。


2006年2月  (二十九歳)
生まれて初めての海外旅行。NEW YORK5日間の旅目的はグラウンド・ゼロ。.
衝撃の事件の爪痕を、この目でどうしても見たかった。

傷つけ、傷つけられて、静かに佇むN.Y.・・・けれどその静けさは
弾を込められた銃のように重苦しく冷たかった。

老舗JAZZ LIVE HOUSE「VILLEGE VANGUARD」での、奇跡のリズムを
繰り出す黒人ドラマーとの出会い。
一触即発のハーレム。
アポロシアターで見た、タテノリで踊る黒人の子供達。
マクドナルドでオーダーをとる時もBGMにあわせて常に踊っている
店員の女の子・・・(笑)

どれもこれも日本人の私とは違う。

「あぁ、私は日本人なんだなぁ・・・」としみじみ。
向こうのものにどんなに憧れたって、そもそもDNAが違う。
同じものをやろうとしたって無理に決まってる。

そしてグラウンド・ゼロへ。
どこからか響く笛の音。大好きな「アメイジング・グレイス」だった。

路上、浮浪者のふり(?)をしてフルートを吹く白人のおじいさん発見。
なぜか感動を覚えながら、近づき「一緒に唄わせて」と言うと、ニッコリ笑って
隣に座らせてくれた。 「アメイジング・グレイス」を唄いながら、
ポッカリと不自然に空いたNEW YORKの青空を眺める。

このおじいさんは毎日ここでフルートを吹きながら、この土地の傷を
癒そうとしているのかもしれない・・・。

しばらくすると、おじいさんが「さくらさくら」を吹き出した。
私が日本人だからだ。
嬉しかった。

それなのに・・・。

途中から歌詞が出てこない。
気を遣ったおじいさんが別の曲を。
「上を向いて歩こう」
これも途中から思い出せない。
なんだか恥ずかしかった。情けなくて、悔しくて、泣いた。
帰国後、真っ先に「さくらさくら」の歌詞を覚えた。
〜霞か雲か 匂いぞ いずる いざやいざや 見に行かん〜

-この唄、こんなに美しい歌詞だったっけ?-

黒人の子供達の身体には、生まれた瞬間、ブラックミュージックが宿る。

じゃあ、私の身体には・・・?

幼い頃、私、何 唄ってた?何 聴いてた・・・?

自分のルーツは紛れもなく「日本」。

「この国を唄いたい。」
私はこの頃から少しずつそう思うようになる。

沢山の音楽を聴き、迷って迷って、捜し求めた一筋の光。
それはとても微かなものだったけど・・・。

日本のイイモノを外国人に教えて貰うって、こんな悔しいことないよ(笑)


2007年  (三十歳)
アカペラライブを続けつつ、自分の「日本」を模索していく。
ボランティアなどへの参加など、活動の場も少しずつ広がっていく。


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